芝桜
隣の芝生は青いです。
傍から見ると羨ましかったり時には良くできている家族でも内実は、それなりに抱えているものや傍目と内情は知れば違ったりします。
傍から見て立派な羨ましがられる家族ごっこを続けている多くの者たちも垣間見れます。
羨ましがられる家族や理想の家族を求めているから、仮想家族に気持ちが行くのです。
現実の家族はそうではなくても己の家族です。
唯一無二の家族です。
誰も多少の不満や理想を持って生きています。
それと違うのが現実だろうが、他と比べられない世界で一つの己で家族です。
家族のメンバーが家族だという大前提が最初です。
他の家族なら超えられることが問題になろうが百%できなかろうが、この家族だからこうであるという他と比較できない独自性を大事に、私もあちら側も世間も自身で自分の家族を作り、その一員でいることが何より何ではないでしょうか。
完全に壊れてしまっている真正の機能不全の家族であれば、是枝監督の映画にもあった寄せ集めの本当の家族も現代の社会では必要です。
でもそこまで行っていなくって、あちら側は、なんだかんだ言ってもあちらのミュージシャンとあの女性二人はコミュニケーションが成立しています。
一致団結していじめや差別に必死になっている繋がりがパートナーにあるなら、何故面識もなくリモートのいじめや差別を仕掛けてくる被害者に、家族家族というのしょう。
歪みや捻じれ、逃げ、垂れ流しの無法地帯のメンタルです。
家族が必要なら、都合のいい家族キャラの妄想で私に過集中せず拾の家族と向き合うからこその、直に触れたコミュニケーションで感じる真実を大事にしてください。
あちら側が、頭で作り上げた妄想の世界に逃げこもうが
感覚と感性の瑞々しさは妄想より目の前の方が勝ります。
良いことも良くないことも感情の高まりは、実際に触れ合えるコミュニケーションが優れています。
直に触れ合え耳と目で高揚したいあちら側と世間なのだなと寂しさが社会の真相でしょう。
あちら側にせよ、より感度の高い触れ合いが目の前にいる拾の家族となら実現します。